体験談|不登校から大学へ|全日制、転校、留年、フリースクール等
この記事では募集した体験談の中から、大学に進学した体験談をピックアップしています。
通信制高校の記載があった体験談は、別の記事にまとめています↓
大人になってからの体験談なので、今のように私立の通信制高校の選択肢が多くない時代の方も含まれています。
原因、背景、大学に進学するまでのルートも様々です。
また、卒業されていない体験談もあります。
高校に入学して2ヶ月後に不登校になり、高校2年生になるまで学校へ行けませんでした。もともと人付き合いが苦手でクラスで友達ができず一人になってしまい、それがつらくて徐々に学校へ行けなくなったんですよね。
私が「学校行ってないから、大学に行けなくなるよね」と不安な気持ちを話すと、母は家庭教師をつけてくれたんです。
高校1年の時は家庭教師に勉強を教わり、自分でも必死に家で勉強をして過ごし、2年生になったら普通に通えるようになりました。そして大学へ進学し、建設会社に就職。
私が自立できたのは、母のおかげだと思っています。母はいつも私にじっくり考えさせ、決断するまでずっと待ってくれました。自分が決断したことは自信をもって行動でき自立につながります。
親に「自立できていないことが心配だ」と責められたら、ずっと自立できなかったかもしれません。母に本当に感謝しています。
なぜ学校に行かないのか私が理由を言わなくても、母はしつこく追及せず、「行きたくなったら行けばいい」と言ったんです。
不登校になったあせりや不安、自分を責める気持ちがありましたが、母がいつも明るく話かけてくれて冗談を言って笑わせてくれるので、家では楽しく過ごすことができました。
徐々にマイナスな気持ちが消えていき、自然と前に進むことができました。
学生だった頃、自分の世界は学校が全てで、その学校へ行けなくなった自分はダメな人間だと自分を責める日々でしたが、大人になった今、狭い世界で生きていたなぁと思います。
学校へ行かなくてもなんとか生きていけるんだと、大人になってからわかりました。もし不登校に悩んでいる子がいるなら、学校が全てではないと言いたいです。
自分を責めず、少しずつやっていけば良いですし、いつか必ず自立できます。人生はどの時点でもやり直せるので、焦らず、心が元気になるまで立ち止ったままで良いと伝えたいです。
小学校1年生から4年生まで不登校が続きました。 小学校に入学して1か月ほどで、父の転勤のため転校しました。
入学した小学校と転校先の小学校の環境が違っていたことと母親が働き始めたことにより、寂しさと不安感が重なって不登校になったと考えています。
転校先の担任教師の言動にも驚かされました。授業中に鼻歌を歌いながら作業していた時に「誰、歌っているの?みんなで笑ってやりなさい。」と言われたり、よそ見をしていた私の頭を教科書の角でたたいたりしました。
入学した小学校とはあまりにも違いがあり、それが不登校の大きなきっかけだったと思います。
夜、寝るときには、明日は学校に行こうと考え準備をして寝ました。「行ってきます。」と言い、家を出るのですが、いつも決まった場所で具合が悪くなり帰宅しました。
4年生の中頃に引っ越しをして、学校も転校しました。この転校先の学校で私の不登校は終わりました。
転校した学校は少人数で非常に暖かな雰囲気の学校でした。転校当日、ローマ字のテストがありました。それまで不登校だった私はローマ字を覚えきっていなかったために100点満点のテストで5点という成績でした。
全員のテストの成績が公表されました。前日までの私ならば、またまた不登校になりそうな状況ですが、なぜか私は「あぁ、頑張らなければいけないな。」と自然に思いました。担任やクラスの生徒の温かさにも安心したのだと思います。
小学校を卒業後、中学校、高校、国立の大学へと進学し教員となりました。教員になった頃は不登校であったことは話すことはありませんでした。しかし、自分が不登校であった事実やそのことを抜け出した経験は、生徒と接するときに大きな力となりました。
自分の経験を生徒に発信することにより、救われる生徒がいることを知りました。「自分は、今、学校に行くことがつらい状況だけれども、先生も同じような経験をしているのだ。頑張ろう。」と感じてくれているようでした。
私にとって不登校という事実は隠したいことではありましたが、やがて良い経験をしたと考えられるようになりました。その経験があるからこそ、同じ悩みを持つ人や生徒に寄り添うことができると思いました。
身近に不登校で悩む人がいるとき、寄り添ってあげることが大切だと思います。そのような状況の中で、きっと抜け出すきっかけをつかみ取ってくれると考えています。
私の子どもは、運動神経に恵まれていてスポ-ツが得意でした。たいていの競技で、すぐにうまくなってしまいました。
主人が野球が好きで、地元の少年野球チ-ムに参加させていましたが、すぐに頭角をあらわし、いわゆる4番でピッチャーとして有名になり、他県からのスカウトも注目される存在になっていました。
その時に、かなり天狗になっている状態ではありましたが、同年齢の子たちとの差は歴然でしたので、まあそんなものかと思っておりました。
中学校を卒業して、隣の県の強豪野球高校から声がかかり、そのまま進学しました。
その高校の野球部に入り、一年生としてレギュラーに入るものと本人は信じていたみたいで、勘違いしたまま高校生活が始まったのでした。
強豪高校だから、全国からすごい子供たちが集まってきているので、レギュラーにいきなりなれるわけはないのに、今までの田舎の経験で、何をしてもすぐに一番になれるという記憶がブレ-キをかけることになりました。
一学期はなんとか学校もクラブも続けていましたが、二学期になると実力差が本人にも分かったようです。クラブを休むようになり、学校もあまり来ていない、いわゆる不登校の状態であると連絡がありました。
親としては心配で、寮に出かけてゆき、息子の話をまず聞くことから始めました。「ここにいる意味がないのだ」と暗い顔をして話す息子に、「確かに、上にはうえがいる、ただ、うまくなる時期は人によって違うから・・・少し野球から離れてみなさい」というアドバイスをしました。
そして、地元の高校に転入手続きをすることにしました。進路のことを考えると、強豪高校にいる方がいいと思いましたが、本人がつぶれてしまったら何もなりません。本人の意向を尊重しながら、高校生活をつづけるための苦肉の策でした。
その後、息子は元気を取り戻し、地元の高校の野球部に途中加入し、すぐにエ-スのポジションを獲得することになりました。ただ、全国にはすごい選手がごまんといることは身にしみてわかっているので、天狗には決してならず、その後、東京6大学に進学し、野球部のレギュラーとして活躍しています。
中学時代に私自身が不登校を経験しました。きっかけはささいな行き違いから、仲間はずれにされたことでした。学校に行けなくなった現実を認めたくなく、しばらくは自室にひきこもり、現実逃避をしていました。
夜も眠れず、悶々としながら過ごしながらも時間が経つにつれて「何だかすごくもったいない時間の使い方をしているな」と感じました。
学校に行けないことをとりあえず受け入れて、学校に行けなくてもやらなければならないことをやろうと思いました。その一つが勉強でした。不登校になってから休んでいた家庭教師の先生に再び来てもらい、高校受験に向けて勉強を始めました。
私は中学生の頃から大学に行きたいと言う目標があったので、自主学習プラス家庭教師と言った感じで計画をしっかり立てて勉強をするうちに、自分自身のペースを確立していったように思います。
他人と自分を比べず、学校に行けない自分をひけめに感じなくなってからは、毎日が生活しやすく、夜も眠れるようになりました。
学校に行かずとも規則正しい生活をし、しっかり勉強もする。そして、さらに自分自身の興味のあることには臆せずチャレンジするようになりました。
その甲斐あって無事に志望校に合格し、その後は大学にも進学しました。その経験は、現在の私にもしっかりと息づいています。
小学校から高校までエスカレーター式の女子校でした。女子特有の、今で言う「同調圧力」になじめず、いつも独りぼっち。陰口やシカトにも耐え切れなくなり、小学校4年頃からは、「お腹(頭)が痛い」と不登校になりました。
中学校に入ると登校するふりをして制服のまま渋谷に出ては、おこづかいで名画座に映画を観に通う日々でした。
中学3年の秋、高校でも小学校から同じ顔ぶれになるのが嫌で嫌で、両親に「公立高校を受験したい」と何度頼んでも聞き入れてもらえなかったのはとてもつらかったです。
父は地方都市に単身赴任する企業戦士で、週末帰宅しても接待ゴルフ三昧。たまに帰宅すると「なぜ学校へ行かないのか」と体罰もありましたが、そのまま地方に帰るため、話す機会はまったくありませんでした。
「学校へ行くくらいなら死にたい」 「映画を観よう。世界が開けてくる」そんな両極端な気持ちのはざまで揺れ動きながら、家と高校、映画館をいききする日々が続き、結局、高校2年を3回留年しました。
3回目の高2の時、アート系の大学進学という目標ができると、父は叱らなくなり、むしろ応援してくれるようになりました。
大学進学までに普通の人より3年余計にかかりましたが、私の成長までそれだけ時間がかかったということでしょう。
そんな娘を扱いかねてはいても、5年分の高校授業料を余計に払い、父はじっと見つめていてくれたのだと思います。
私は高校2年生の時に2ヶ月間ほど不登校になりました。
中学のころから学校が苦手でした。その理由は部活動です。通っていた中学の吹奏楽部が強豪で、全国大会を目指す部活だったので、かなり忙しかったです。
それだけなら頑張れたのですが、辛かったのが人間関係です。先輩や同期も性格がきつい人が多く、何かミスをしようものなら全員の前で見せしめのように怒鳴る、ぎすぎすとした雰囲気が嫌でした。
親が部活を三年間きちんと続けなさいというような家庭だったので、私はずっとやめたかったのですが、何とか3年間続けました。
高校では部活はやめておこうと考えていたのですが、勧誘に流されるように入ってしまいました。私は気が弱いほうで流されやすく、一度始めたものもなかなかやめられません。
ただ、中学と比べて高校の吹奏楽部は練習もゆるく、ゆったりとした雰囲気だったので、友達も増えて楽しく過ごすことができていました。しかし、高校2年生の時、自分たちの代の部長を決めるときに、経験者の私ともう一人の子とで同期がもめてしまいました。
もう一人の子に味方していた女の子たちが、わざと聞こえるように悪口を言っていたり、先生からの伝達事項も伝えてこなかったりと、いやがらせを繰り返されました。結局、私ではなくその子が部長になったのですが、明らかにその子が印象操作をして私を陥れていて、本当に悲しくてやりきれませんでした。
その後も小さないやがらせはなくならず、学校で行動する友達も同じ部活の子しかいなかったので、私は不登校になりました。
それから学校に行けるようになったのは、先生からのスクールカウンセラーとのカウンセリングの勧めや、仲の良い友達の支えがあったからです。
認知行動療法などを教えてもらい、自分が辛いと思っていることと事実を切り離して考えることができるようになりました。やっと、支えてくれる友達がいることに気づけました。
不登校になった当時は、視野が狭くなりすぎて、苦しいことが多く、なんで私ばっかりと考えがちでした。しかし、認知行動療法をすると、じゃあ悲しい思いをしたうえでどうするか?を考えられるようになりました。
卒業まで、スクールカウンセラーさんとの面談を続けていましたが、進路を考えた時、こんな風に人を助けられるような人間になりたいと考えました。そのため、大学は心理学を専攻できる学科にしました。
中学校から高校にかけて5年間ほど出席日数ギリギリの不登校をしていました。理由は主に思春期うつ病の症状によるものです。
当時、家庭事情で問題を抱えていて、一時期は児童養護施設に身を寄せていたこともありました。そこで里親との養子縁組も提案されましたが、当時高校生だった私は大学進学を希望していたこともあり金銭的援助が受けやすい実親のもとに戻ることとなり、学校も辞めずにそのまま通い続けました。
現在は4年生大学で経済学を学んでおり、将来は国際協力関係のキャリアを歩みたいと考えています。
不登校期間中に病院の他に少年育成センターという所に定期的(数ヶ月に一度)に通っていました。警察の少年課が運営している施設で、カウンセラーの資格を持った警察官が思春期の更生を目的としてカウンセリングしてくれます。
私に関しては、当時カウンセラー業務を始めたばかりの方が担当してくださり、その方が他の少年センターに移動しても変わらずその方に会うために通っていました。
(行政なので担当者が異動しやすい)6年間通っていたこともありカウンセラーの方も非常に親身になってくださり、上記の児童養護施設に入所する手配をしてくださったのもその方でした。
親友や親にも話せないようなことを聞いてくれていたので不登校の最中でも心の拠り所になってくれました。不登校などで悩んでいる学生にはぜひおすすめしたいです。(無料です)
この空を撮影してくれたのは小春さん。同じブロガーさんです。
中学不登校から大学に進学。
不登校の経験を武器に就職活動、関係ある仕事、会社に就職が内定。
希望です。応援しています。
他にも不登校を経験したご本人、ご家族、また、先生など関係者の方々の体験談を多く紹介しています(当サイトで募集しました)