「普通」って何?ないと医師に言われた話|それぞれの基準、ものさし
学校に行けなくなった娘に言われた。
「普通にできなくて、ごめんなさい。」
なんとも言えない気持ちになった。
私は「普通に、普通に」育てようとしてきたんだろうか。
自分ができないのに。娘にはできるようにと。
みなさんの考える「普通」ってなんですか?
この記事では「普通」という言葉について書いています。
私が感じたことを思うがままに。
多数派でいることの安心感
私は小さい頃から、みんなとあわせるのが苦手だった。
なんか自分違うなーと思ってきた。
「普通」ってよくわからないし、「普通」という言葉が好きではありません。
「普通はこうするよね」「普通に考えたら」「これが普通でしょ」「なんで普通にできないの」
そう言われるのがほんとうに嫌だった。
だから「普通」という言葉に過敏に反応してしまう。
子どもの時に観たテレビ番組、欽ちゃんの「良い子、悪い子、普通の子」ってあった。
これで言うと、まじめ優秀でも不良でもない場合は普通の子。
だったら、自分は普通の子だな 大丈夫、なんて思ったこともあった。
怒られてばかり、「普通」ができない自分はおかしいんじゃないかと不安になることはあった。
みんなと一緒がいいとも思わなくて。群れるのが嫌いで。
むしろ、人と違うことをしてる人が羨ましかった。
寂しいと感じた時もあるけれど一人が気楽だった。
でも、娘は違うんだよね。特別に見られるのが嫌。目立つのが嫌。そんな子だった。
学校では大勢の方に合わせてきた。みんなと一緒がこの子の安心感でもあった。
「一人でいてもいいんだよ」「みんな違っていいんだよ」そう言ってきた。
でも、みんなと一緒、普通がいいんだと言い続けた。
ママとは違う、私は普通に生きていきたいんだって。
主人も大多数の通る道の方がはるかに楽だろと言った。
私にとっては多数派、これが「普通」
多数決は決める1つの方法だよね。
そんな時は優位ではあるけれど、だからと言って正解とは違う。
「普通」= 正解でも幸せでもない。
中3の不登校の時、美術の宿題を自宅でやって提出した。
作品鑑賞で、1946年冬(アンドリュー・ワイエス)をみて、自分と重ね合わせて考えたことを書きなさいというものだった。
私がかわりに学校に提出に行った。
学校には行けないけれど、宿題はやる子だった。
「自分と同じように何かから逃げているように見える。
みんなのいる明るい『普通』の場所から転びそうになりながらも必死に丘を降りている。
その陰に追われているようにも見える。
丘の向こう側にはつらいことがあって、見えないところまで走っていく。
下っていくのは簡単だけど、上っていくのは大変。
ほんとうに暗いのは丘の向こう側で、明るい側に逃げているようにも見える。」
と書いていた。
中3の一番苦しんでいた時期に書いた文章。
みんながいる場所が「普通」で明るい場所。
そこから逃げた。戻るのは大変。
でも、明るく見えた場所は実は暗くて、ほんとに明るい場所へと逃げた。
「普通」について悩み苦しんでいることが伝わってきた。
それぞれの「普通」のものさし、基準
ある時、主治医に「普通ってなんですか?」って聞いてみました。
「ないよ。ちょっとズレてるだけかな。俺もそうだからさ。」
そう笑って言いました。主治医にとって、普通はなかった。
そっか、私もズレてただけなんだ。
枠にはまっている人と、ちょっとズレているところにいる人。
枠自体が変われば、そこではピタッとはまることもあるんだよね。
選択肢が時代とともに増えてきた。
少数派が増えて、足したら多数派を圧倒することもある。
昔の「あたりまえ」が今では「珍しいこと」になっていることだって たくさんある。
学校では多数派に合わせる教育をしていく。足並みを揃えることを良しとする。
少数派には生きづらいのが義務教育の学校なんだろうね。
大多数の通る道は広くて整備されている。
でも、その整備が進みやすく感じないのなら、小道を進んで目標を目指せばいい。
見つけにくかったり、迷ったりすることもあるけど。
でも、大きな道以外で見えてくることもある。
なんなら、自分で開拓すりゃいいんじゃないか。
周りの影響を受けて、「普通」「あたりまえ」という概念を作り出しているのは自分自身。
医師の言葉で、自分の中で長年抱えてきた何かがすーっと消えた気がした。
人と違うことを受け入れる。普通にとらわれ、呪われないように。
最後に心に残った文章を紹介します。
朝ドラ『おちょやん』のセリフ
「むしろ普通の子なんていません。いろんな子がいて、みんなそれぞれ頑張ってるんです。しいて言えばそれが普通です。」
第69回全国小・中学校作文コンクール 文部科学大臣賞の作文
小学校高学年の部 「それぞれのものさし」
岩手県盛岡市立桜城小4年 山田結心さん
一部を引用します。
だれだって(自分は)普通だと思っている。でも普通には基準がない。
自分が出来るから相手も出来るわけではない。
それが母の言う「自分の物差しで人を見てはいけない」という事だ。
引用:読売新聞へようこそ
山田結心さん 第55回NHK障害福祉賞・優秀賞も受賞しています。