起立性調節障害(OD)は子どもによってタイプも重症度も違います。
小学生から高校生の年齢での発症が多く、症状によっては学校生活に大きな影響が出ます。
体調不良とともに、今まで できていたことができなくなる怖さ、悔しさ。
不安や罪悪感で苦しみ、心理面でも追い込まれます。
そのため、社会・学校での正しい理解や支援が必要な病気です。
この記事では、起立性調節障害の体験談を紹介します。
学校生活、部活、行事、先生や同級生とのこと、進路についてまで、とても詳しく語ってくれました。
親子の心境の変化、お母さんの仕事、子どもへの想いも。
どれほどの想いで ここまで頑張ってこられたのか、想像していただけると思います。
執筆はお母さんですが、娘さんの心情も伝えている、親子の貴重な記録です(今回の依頼は娘さんもご存じです)
当事者の今の声です。多くの方に読んでほしい体験談です。
(ここから先の挿入写真は、この体験談のお母さん撮影です。写真も協力していただきました)
現在中学3年生、通信制高校に進学を決めた娘。中学1年生の夏頃、起立性調節障害と診断されました。
小学5年生ぐらいから、目がチカチカする、頭がフラフラする、お腹痛い、吐き気などの症状があり、日中学校で保健室で休むことが多くなりました。
この後、コロナ禍になり 学校も休校することが多く、自宅学習に入り、症状も少し落ち着き思春期特有の症状だと思っていました。
この頃の私は、毎朝なかなか起きない娘は、朝が苦手な娘と思い、早く起きなさいーと叱ってばかりいました。
今思えば、その頃から起立性調節障害の症状が出てたんだと思います。
その後、中学に入学。 学校やお友達が大好きな娘、期待と希望で胸をふくらませていました。
中学初日の娘の姿、今も胸に焼きついています。涙を流しながら、中学はまるで軍隊みたいだ。
普通の公立中学ですが、校則はかなり厳しく、集団行動の機微さや、足並みを皆と揃えることに力を入れています。
入学式の様子から、私自身も少し違和感を感じていました。
心配はしましたが、ソフトテニス部に入り、朝練から普通に通っていました。
ゴールデンウィークを過ぎたぐらいから、朝練も遅れがち、後に学校を休むことが増えはじめました。
日中も保健室に行くことも多くなり、学校で何かあったのかな?と心配していました。
職場に保健室からお迎えの連絡があることも増えました。
その頃の職場の上司は、早退や欠勤が増える私の状況に理解がなく、私自身にはその上司からの心ない言葉に耐える毎日でした。
実母が亡くなり、実父と同居し始めた時期でもあり、娘と父の介護のことで職場にはかなり迷惑をかけていたのは事実です。
これではいけないと職場を退職。事情を説明したうえで、以前お世話になっていた派遣会社に変わりました。
当時は仕事と娘のことで悩みましたが、仕事を続けていて良かったと思ってます。
私は私を頑張って、娘は娘を頑張る。
調子が悪い娘をひとり置いていくとき、いつも胸が痛くなりますが……
娘と私もひとりの時間が必要なタイプで、この距離感がお互いの想いを見つめ直せるいい距離感だと。
ずっと一緒だとぶつかり過ぎてしまいすしね。
この時期、たびたび保健室に行くことが多くなった娘。
保健室の先生から、貧血かもしれない。もしくは、起立性調節障害かもと病院への診察を勧められ受診しました。
血液検査は異常なし。やはり、病院の先生も起立性調節障害を疑いました。
そして、ODの検査の結果、起き上がったときに血圧が上がらない、低血圧の起立性調節障害と診断されました。中度と重度の間ぐらいであると。
その時の娘の心境は、朝寝坊してしまう、保健室で休んでしまう、集会中にめまいで倒れてしまう。
なんでだろう?遅くまで起きてたからかな?自分は怠けてる。もっと頑張らないと。
朝遅刻することがいちばん嫌だった、病気が原因だとわかって少しホッとしたと言っていました。
だが、ここで終わりではなく、病気とわかってからも娘と私は思い悩む日々が続きます。
診断後、娘と私は病気のことについて沢山調べました。
その時、私は病気の原因を作ってしまったのは私ではないかと責める日々が続いていました。
両親、主人とも持病があり、娘も小さい頃から塩分控えめな食事をしていたこと。
忙しい中、なかなか娘との時間が取れていなかったこと。
私の育て方かなとか、ごめんねの気持ちであふれていました。
娘にこの事は言えるはずもなく、ひとりで考え込んでいました。
そんな中、娘は前向きで、治療の仕方や、病気にいい食材や体験談を読んで、着圧ソックスがいいとか、もうたくさんたくさん調べていました。
毎日、娘とあーでもない、こうでもないと過ごす日々で、私も頑張らなきゃって気持ちになりました。
でも、周りの人達は違っていました。 いちばんつらかったのが、主人や同級生の保護者の方が なかなか理解してくれなかったことです。
今は、たくさん想いを伝え合って少しは理解してくれてる感じです。
学校生活では、体調がいい日は毎日朝から登校できたり、全く起きあがれず何日も休んでしまったりとそんな日々です。
血圧を上げるお薬の副作用で食欲がなくなったり、中学1年の今頃は体重も落ちてガリガリでした。
治療すれば良くなると前向きになっていた娘も、病院に行ってもよくならないから行かない。
学校も行きづらいと言うようになりました。
いちばんは、行きたいけど行けない、学校に行けない罪悪感に押しつぶされそうになっていました。
私も不安なところを見せまいと、明るくいつもと変わらず接することを心がけていました。
学校行かなくてもいいやんの一言でぶつかったこともあります。
だから、学校行く?ではなく、どう?起きあがれそう?言葉のかけ方を変えました。
だって、学校は行きたいけど起きあがれないですもんね。
じょじょに遅れても学校に登校するようになりました。
娘の担任の先生が以前も起立性調節障害の生徒を受けもったこともあり、親身に娘と向き合ってくれました。
担任の先生も性同一性障害で学生時代苦しんだ経験があり、沢山娘と向き合って話してくれました。
娘の今があるのも先生の存在があったからだと。
病気のせいにせず 頑張りたい娘に対しての先生が言った言葉です。
「できないときや つらいときは自分を責めず、病気のせいにしたらいいやん。
食欲がないとき、学校でゼリー食べてて周りに何か言われたら、病気のせいにしたらいいやん。
病気のせいって逃げてもいいやん。」
娘からこの話を聞いたとき 自分を責め続けてる私も救われた気がしました。
歩けなくなった娘を小さい身体で保健室までおぶっていってくれた話や、道徳の時間に娘の病気の話を取り上げてくれたこと。
そんなこともあり、仲のいいお友達が娘を助けてくれるようになりました。
周りも、娘も病気を受け入れて行くようになったと感じたのはこの頃です。
だが、ある日 部活で新人戦のメンバーを決める日、体調が悪く出席できませんでした。
いくら上手くても、参加してこそのメンバー決めと言うこともあり、体調を整えられないことがだめな風潮がありました。
悔しかったと思います。それからです、この日、大事な日、テストの日、学校行事の日と目標を決めて自己管理するようになりました。
見ていて 頑張っている姿に胸が痛くなるときもありました。
あるテストの日は、朝まで眠れずそのまま学校へ行った日もあります。
その、見えないところでの娘の努力は、そばにいる私しかわからないことで、娘のすごさを感じていました。
あえて、学校行事の実行委員長に手を挙げたり、部活ではキャプテンを引き受けたりと、自分に負荷をかけることで頑張る理由がほしかったんだと思います。
学校を休んだ日もお家でもやれる事があるからと、ほんとによく頑張っていました。
中学2年生になった頃、前担任が学年主任となり、次期担任の先生にも娘のことを引き継いでいただけました。
この先生とは、ほんとたくさん、娘も私もぶつかりました。正義感が強く、熱い先生でした。
娘を思うあまり過剰に干渉されることが多く、学校を休むと仕事終わりに私に電話がきたりと、とても熱心で、見守ってほしいと何度も伝えていました。
娘も私も、その熱い想いが負担になっていました。この時期がいちばん娘も私もしんどかったです。
この頃は、昼から学校、部活をしに行くために学校に行っている感じでした。
部活の顧問の先生も理解があり、病気のことにはあまり触れず、見守ってくれる先生でした。
クラスのみんなもありのままの娘を受け入れてくれてました。
倒れたらいつも娘を何人かで支えてくれ、 遅れて来ても普通に、ただただ普通に。
今も中2のクラスがいちばんよかった〜と言うぐらいです。
中学3年になり、進路について考えければ行けない時期になりました。
病気を克服し、全日制高校へ行きたい が娘の希望でした。
学校は遅れがちでしたが 勉強は大好きな娘、休んでる日もコツコツと勉強し、成績は悪いほうではなく、学校を休んでる割には良いほうでした。
夏休みは全日制のオープンハイスクールに何校か行きました。
娘の高校のイメージはとても良いとは思えなかったと。
病気と関係なく、通ってみたい魅力がないと言ってました。
でも、高校受験を頑張ることを目標にしていた娘、いろいろ考えたんだと思います。
ある日、通信制高校に行きたいと言いはじめました。
その時、娘の背中を押してくれたのは保健室の先生です。
何気なく、高校どうするん?みたいな会話から、通信制高校に通ってる卒業生の話をたくさんしてくれました。
やりたいことがある娘、高校受験のため自分を追い込むより、高校は将来への通過点ぐらいに思って、自分に向き合う時間にしたほうがいいのではと考えはじめました。
残りの中学生活を大好きなみんなと少しでも過ごしたい。高校生になれば、みな違う進路で離れてしまうからと。
今は、通信制高校をどこにするかパンフレットを見たり、説明会に参加し模索中です。
学校行事や、クラスメイトと過ごすのが大好きな娘、その点では不安がありますが、前向きな気持ちで通っていけると頑張って考えています。
『追記』
2024/02 通信制高校合格の嬉しい知らせが届きました。
おめでとうございます🌸春からの新生活楽しみですね。応援しています!
娘が自分のペースで学校に通えてることは、ほんとにあたりまえではなく、娘の頑張りを理解し、そっと見守ってくれる周りの人達のお陰だと思います。
同級生には、ほぼ保育園からずっと一緒のお友達もいるため、みんなが幼なじみのような存在だったこともあるかなと思います。
数は少ないですが、何でも話せる先生とめぐり逢えたことも。
遅刻理由に恋の病と書いてくれる先生。
君がいないと音楽の時間、誰も歌ってくれないから先生寂しいねんって言ってくれる先生。
放課後、苦手な数学を教えてくれる先生。
いろんなことに恵まれていたんだと思います。
ほんとのほんとのところは娘自身しか分かりえないほどつらいのかもしれません。
学校で倒れるたびに、このまま起きあがれなくなるんじゃないかと怖くなる。
暗闇に落ちて戻ってこれないかも…と言ったときは、私にも娘と同じ怖さをあじあわせてくださいって…自分の無力さを感じました。
だから、娘は同じ経験をした人の前で、自然と涙があふれたんだと思います。
わずかな時間でしたが 、通信制高校の合同相談会(学びリンク)で、起立性調節障害の親の会の相談員さんに出逢えたことに感謝しています。
現在まで、書ききれないほど、いろんなことがありました。
親として思うことは、ただただ見守り、どんな娘もありのままに受け入れ、誰を責めるわけでもなく、すべてを愛することだと。
喧嘩しても、ぶつかっても、そこには娘に対して無償の愛しかない。
そこにいてくれるだけ、それだけで私はしあわせです。
病気になったことで、知り得なかった世界や、こんなにも学校に行けなくて想い悩んでる子どもたちがいることを知りました。
朝起きて学校へ行く。あたりまえだと思っていたことが、あたりまえではないこと。
娘も私も大切なことにたくさん気づきました。何かできないかといつも思ってます。
起立性調節障害の親の会の相談員さんのように、娘の成長を見守ったあと、このような活動ができればと思っています。
そらさんの言葉の中で、娘のように経験した子どもたちがこれから世界を変えてくれると、私もそう思っています。
あたたかく受け入れてくれたこと、きっと娘も大人になったとき、あたたかく受け止めらると信じています。
私も、子どもたちが生きやすい社会になることを願っています。
つらいことも、涙したこともありますが…… それをも超える、娘とたくさんたくさん向き合えた2年間でもあります。
コロナ禍や、幼いころからたくさん過ごした祖父母との突然すぎる別れ。
娘なりに、何か感じとっていたんだと。部活の練習、試合、学校行事、キラキラした笑顔でみんなと楽しんでいました。
わたしも娘から気づかされたことがたくさんです。
通信制高校に進学を決めたで終わらず、今まで支えてくれたお友達や先生と、残りの中学生活、笑顔いっぱいで頑張ると。
わたしが大切にしなきゃといつも想っていること、一期一会、娘も大好きな言葉です。
最後まで読んで頂けたこと、みなさんに出逢えたことしあわせです。
ありがとうございます。 感謝。
つらい経験を振り返ることにもなったと思いますが、同じように苦しんでいる子ども達のために役に立つならと協力してくださいました。
本当に ありがとうございました。
娘さんのその後、通信制高校に進学後の体験談も書いてくださいました。
この体験談も起立性調節障害の経験、定時制高校に進学した体験談です。
こちらは親ではなく、高校1年生、当事者が語っています。