【先生の体験談】不登校の事例3件|原因・対応・経過から思うこと
この記事は、不登校の生徒と関わった先生の体験談です。
・昭和56年 保健体育科の教員として採用、中学校に赴任。
・教育現場を離れて自然の家に勤務、夏はキャンプ、冬はスキーの活動指導。
・学年主任や生徒指導主事、教務主任などを歴任
事例をあげながら、不登校についての想いを語ってくださいました。
ここからはライターさんの記事です(吹き出し内は私の感想です)
「登校拒否」から「不登校」へ
私が教鞭をとっていた頃は、不登校を「登校拒否」と言っていました。
30歳後半あたり、「登校を拒否しているのではない」という考えから「不登校」と呼びましょうという過渡期だったと記憶しています。
適当な言葉が思い浮かびませんが、「不登校」という言葉も私は嫌いです。
学校へ行かない子ども達が区別、差別される言葉がなくなって初めて、ひとしく子ども達の人権が守られるようになるのではないかと考えています。
私は50代です。子どもの頃、「登校拒否」と言っていましたね。
今は「不登校」、学校に登校していない状態で使われています。
ブログの検索上で使っていますが 私も嫌いです。
特別、あたりまえのレールから脱落したような、子ども達に不安を感じさせるネガティブな言葉。
時代の変化とともに、学校に行けない子ども達の背景も変わってきていて、一括りにはできないと思います。
不登校の事例と経過
不登校の生徒の3つの事例を紹介します。
(事例1) 中学1年、女子
彼女が3年生になってから分かったことです。
1年生の彼女はバレー部に所属し、3年生の引退後、顧問から新チームのセッターに指名されました。
2年生主体のチームにも係わらず唯一の1年生でした。
ところが、彼女がレギュラーになった関係で、2年生の一人がレギュラーから外されました。
そのため、数か月に渡って2年生から「お前がレギュラーになったから〇〇さんがレギュラーをはずされたんや」と言われたことが引き金になったようです。
1年生の12月頃から学校を休み始めました。徐々に欠席が多くなるというのではなく、ある日を境に全く来なくなりました。
2年生時は学校行事以外全て欠席です。3年生の4月の入学式から登校を開始したとのことです。
1年生の12月、彼女に「学校へ行こう」と呼びかけましたが、布団をかぶって微動だにしません。
次の日も、その次の日も同じです。
その次の日には学年主任と2人で押しかけましたが、無駄な徒労に終わりました。
1ヶ月ほどして、同僚から「カウンセラーがいる」という助言がありました。
本人は会いたくないと言うので、母親だけが面談を受けました。
その結果、次のようなことを確認しました。
- 2週に1回のペースで面談を試みましょう。
本人が会いたくないというのであれば、お母さんから様子をお聞きします。リスト - 会うことを強要する、会えば学校へ行けるようになるなどという言葉は厳禁です。
- 面談したことはお子様には伝えて下さい。内容を伝える必要はありません。
しかし、お子様からどんな話をしたのか聞いてきたら教えてあげて下さい。
3月一杯まで平穏な日々が過ぎましたが、4月になり母親も少し焦りが出てきました。
そのために②の約束を破ってしまい、それまで面談したことや面談の内容に興味を示してきましたが、以後、全く反応がなくなったと母親から報告を受けました。
母親も約束を破ってしまったことを悔いていましたが後の祭りです。
悔いても悔やみきれない思いで大粒の涙を流している姿が印象的でした。
それからは、私自身もカウンセラーの先生から「絶対に学校との関係を断ち切らないこと」というアドバイスを受けて、ほぼ週1のペースで家庭訪問を重ねました。
家庭訪問では 学校の話は ほとんどしません。無理して話もしませんでした。
30分ほど滞在しましたが、話がないときは一緒にTVを見て帰ることもありました。
不思議と修学旅行や体育祭、文化祭などの学校行事には参加しました。が、次の日からは元の鞘です。
4月になり私も異動になりました。
3年生が卒業して原因が取り除かれたので学校へ行くようになったと知りました。
彼女の不登校という行動だけに捕らわれることなく、もっと心の内に目を向けるべきだったと痛感する苦い体験でした。
(事例2) 中学3年、男子
不明
1年の夏休み後、学校を休みがちになり、秋には全く学校へ来なくなったようです。
2年時も数日の登校があっただけで、殆ど出席はありませんでした。
3年生になり、私が異動で赴任し担任となりました。
カウンセラーの先生に相談し、月2回ほどの面談をすることになりました。
本人からは「会ってみる」という意思表示もありました。また、面談場所は私の自宅としました。
カウンセラーの先生との相談の結果、10月頃に登校刺激を与えるために「進路」の話をしました。
タイムリーだったのでしょうか。暫くしてから、登校するようになりました。
(事例1)後、異動になった学校で3年生を担任することになりました。直ちに家庭訪問を試みました。
部屋に通されると、ゲーム機が部屋の真ん中に置かれ、足の踏み場もない状態でした。
かろうじて座る場所を確保して話をしました。
「なんとなく学校へ行きたくない」と言うだけで、学校が嫌だとか、嫌いな先生がいるとか、友だちと上手くいっていないということは全くないということです。
この生徒には母親よりも父親が関与することが多く、部屋の掃除は本人の意思に任せているということでした。親が掃除するということもないということです。
学校も本人が「行く」と言えば送り出すし、行く行かないの意思確認も今は行っていないということでした。
ゴールデンウィーク明けに、保護者にカウンセラーの話を持ち出しました。
積極的ではありませんが、内諾を得ることができました。
本人への話は父親がすることになりました。結果、本人も「会ってみる」と承諾しました。
その後、私の自宅を使って面談が始まりました。面談の内容は私も聞かないし、知りません。
時折、先生の方から報告がある程度です。
10月、全市で第2回の進路希望調査が行われます。カウンセラーの先生に相談すると、「一度、登校刺激を与えてみましょう」と先生の方から話を切り出してこられました。私には「勝算があるんだ」と感じました。
本人と面談しましたが、本人は進学を諦めていて就職するつもりでした。保護者も同意見です。
色々話を進めると、「できるものなら進学したい」という心の内を話してくれました。
次に「進学するためには何が必要か」という点を話しました。
結論として「登校すること」だと言い切りました。
事実、当時の県立高校の傾向として、不登校児を受け入れないことが多かったからです。私立高校は論外です。
その日は「登校することだ」という表現に留め、登校を促す表現は避けました。
次に、小学校の頃から一緒に遊んでいた同じクラスの友達に「本人は進学を望んでいるみたいやし、なら、登校することが一番なんやけどなあ」と相談を持ちかけました。
すると、その友達の力添えもあり、暫くしてから登校するようになりました。そして、地元の県立高校に進学することになりました。 その後、高校も卒業し就職したという噂を耳にしました。
(事例3) 中学1年~3年、男子
不明
学年主任として係わりました。小学校の頃から不登校を引きずってきた生徒です。
小学校の担任から「お祖母ちゃんに甘やかされて育った」と説明がありましたが、結局は原因が分かりませんでした。
この地域は農村部で殆どが三世代家族です。親より祖父母の権限が強い地域です。
入学当初や2年、3年の4月は、1か月くらいは登校します。しかし、その後はさっぱりでした。
3年の10月頃、担任と相談し、私の経験から登校刺激を与えることになりました。
簡単に言えば「進学したいのなら、先ずは学校へ来ることだ」という話です。
私と担任が家庭訪問し、本人、母親、祖父母が同席している中、私から話をしました。
翌日から本人の登校が始まりました。結果的には卒業式まで1日も休まずに登校しました。
ただ、本人に覇気がなく、何かに一生懸命に取り組むという生徒ではなかっと思います。
担任には言っていませんでしたが、私としては、普通に登校して、普通に進学するという普通の生活をすることで、何か生き甲斐を見付けてほしいという願いで登校を促しました。
唯一とは言いませんが、それが私たちにできることだと考えました。
私と担任が家庭訪問した日、私たちが帰った後、恐らく母親(お嫁さん)に祖父母が、「世間に恥ずかしい」とか「母親がしっかりせんからだ」などと責め立てたのではないかと思います。
したがって、先ずは普通の生活を送れるようにすることが、家庭の安定に繋がり、本人に好影響を与えられないかと考えたからです。
進学も推薦で私立高校へ合格し、無事卒業して進学しました。ただ、引き受けて下さった進学先の担当から9月頃に電話があり、退学したという報告を受けました。
担当には、願書提出前にどんな生徒であるか全て正直に話してありました。
上司には「この生徒を引受けて大丈夫なのか」と言われたそうだが、残念な結果となり多大な迷惑をかけてしまいました。
その後の噂は聞いていません。今でもあの生徒に対するアプローチは良かったのか自問自答しています。
当時の不登校の対応は今とは違いますね。
2017年、教育機会確保法が制定され、学校だけが学びの場ではなく、休みが必要な子もいる。登校刺激は慎重に考えられています。
学校に行かなくても選択肢はあると簡単には言えない時代だったんですよね。今のように私立の通信制高校も多くありません。
学校に戻ることが子どものためで、先生方はそのために頑張られていた。そんな時代だったのだと思いました。
また、当時から、スクールカウンセラーさんがいたことに驚きました。
学校に定期的にいらっしゃったのではなく、個別に依頼していたということでしょうか。
先生の自宅を利用してまで、大変だったと思いました。
あの頃、学校に来ていない子どものことを考えたこともなかった。同じ立場にならないと知らないままのことが多いのだと改めて感じました。
学歴と学校歴
「あなたの学歴は?」と問われたら、多くの方は「〇〇小学校卒、〇〇中学校卒、〇〇高等学校卒、〇〇大学卒」というように卒業した学校名を述べるに留めるのではないでしょうか。
私はこれを「学校歴」と定義し、「学歴」と区別をしています。
学校歴とは「卒業した学校の歴史」であり、学歴とは「学問の歴史」だと考えています。
例えば、小学校では勉強そっちのけで、スポーツの好きなやんちゃ坊主でした。
中学校では勉強も頑張りましたが、陸上競技に興味が湧きました。
高校では勉強は今一でしたが陸上競技を頑張りました。その時にできた仲間は一生の仲間です。
大学は教員になりたくて体育学部を選びました。
中学校以来続けてきた陸上競技を深め、28歳の夏、17年間の現役に終止符を打ちました。
つまり、学歴とは「それぞれの学校で何を学んできたか」であり、本来、「学校歴」より「学歴」の方が優先されるべきではないでしょうか。
私も、どこの学校に行ったかではなく、どんなことを学んだかが大切だと思います。
やりたいこと、なりたい仕事を目標に勉強、進路を決められれば理想的ですよね。
子ども達もそういうものが見つかり、仲間ができれば学校にも行ける。
中学までは難しくても、高校、大学と選択肢は広がっていきます。
そこまでに心を壊さないことだと思います。
最後に
中学生ともなると学習以外に問題を抱えている生徒は多いものです。
私の教員としての経験の中だけでも、特殊なものとして盗み癖や放火癖に始まり、バイクの窃盗に無免所運転、不純異性交遊、喫煙、飲酒など、取り上げたらきりがないほどです。
学校では日常茶飯事のように対策会議を持ち、家庭訪問を実施して夜遅くまで保護者の方々と相談した記憶があります。
しかしながら、私はどのような問題でも、最後にはご両親にお願いしてきたことが一つありました。
それは「ご両親が幸せになって下さい!」と。
「子は親の鏡」と言われます。ご両親が幸せになる姿から子どもは学ぶものではないでしょうか。
私が中学生の頃、学校が荒れていましたね。
不良と言われた子たちが多くいて、先生方は苦労されていました。
娘のようなタイプの学校に行けない子は少ない気がしましたが、この記事の事例3は似たものを感じました。
小中学校、そして高校と学校に行けないのは、この子自身が抱えているものがあって、学校で みんなと同じ、大多数の通る道の「普通」が生きづらかったのかもしれないと思いました。
(娘の状態からの想像です)
田舎の3世代同居も我が家と同じですね(^^;)これは今もあります。お母さんが言われた言葉、自分と重ねながら読みました。
今のようにネットがない時代は、子どももお母さんも もっと孤独で悩み苦しんだのではないでしょうか。
オンラインの普及、学校以外の学びの場は増えて、環境は大きく変わり、先生の対応も変わりました。
でも、学校自体は当時とはあまり変わっていない気がします。
先生方が困っていることは、子ども達が困っていることでもあり、親が困っていることでもあります。
不登校の子ども達は年々増え続けています。
先生と親が知識を共有し、歩み寄り、子ども達のことを考え、変わっていく必要があると思います。
最後に、まだまだ 落ち込む時もありますが、大らかに笑顔でいることが子どもにとっての安心感となります。
一喜一憂することもあり、なかなか難しいのですが(^^;)
子どもと私の人生は別で、自分自身の人生を生きようと思うようになりました。まだまだこれからですね。
この度は、貴重な経験をお聞かせいただき、ありがとうございました。