体験談|不登校から復学したきっかけについて|友達、先生など
不登校の解決は学校に戻ることだけではありませんが、なにかのタイミング、きっかけで復学できることもあります。
(その)学校に行くことが苦手なのか、学校そのものに行くことが苦手なのかで違います。
また、発達障がい(グレー、二次障害)があるかないかの不登校でも違ってくると思います。
この記事では、復学したきっかけを語っている体験談をピックアップしました。
また、いじめについても書いています。
不登校から通信制高校に進学された息子さんがいらっしゃる、あんりさん(@anriblog)のブログ、(不登校のママLIFE)にも多くの体験談が紹介されています。
いじめと不登校
体験談を紹介する前に、少し「いじめ」について触れさせてください。
読んでいると、やっぱりいじめが多いんです。
いじめは、やった側、(その)学校にあきらかに問題があります。
じゃあ、問題を取り除いたらいいって思いますが、心が傷ついていると回復に時間がかかるんです。
いじめはその時だけではなくてPTSD、その時の記憶がフラッシュバックする。
そうなると、別の学校も行けなくなることも。人間不信となります。
加害者は忘れていくんです。何とも思ってないことが多い。許せないんですよね。
被害者が不登校となり、加害者が学校で守られていることの理不尽さを感じます。
現役通信制高校生執筆の記事です↓
いじめられた経験と、今いじめられている子にメッセージ
フランスでは、被害者が8日以上学校に行けなくなったら禁固刑、罰金に。そこまでしないと減らないんです。
韓国も厳しいです。
また、スコットランドやイギリスはいじめの法律があります。
この記事を少し引用します。
筆者としては、生命を守る任務の当然のこととして、学校に対して注意喚起しているにすぎない。本来は、学校側が気付くべきことを、教師たちより先に気づいたので、学校にご報告申し上げているだけである。
筆者はこれまで、いじめ防止対策推進法に則った診断書を発行して、学校側から感謝されたことは一度もないが、しかし、無視されたことも一度もない。学校は、例外なく、高度の緊張感をもって診断書を受け止めるはずである。
筆者には苦い経験がある。いじめ被害者が自殺したこともあれば、反撃に出て刑事事件を起こしたこともあった。そのような経験をしているので、可能性を察知したら、躊躇はしないつもりである。
引用元:1枚の診断書がいじめ自殺を防ぐ 医師だからできること
娘の場合、小学校低学年の時は いじめを学校側に相談し、相手の子から謝罪。
腹痛など体調不良は通院、カウンセリングも受けていました。
約3ヶ月間 付き添い登校をしながら少しずつ復学。その後は卒業まで通えました。
中学の時も、同じように復学を考えましたが、途中からは学校に行かない選択をし、そのまま卒業しました。
通信教材を出席扱いにできた体験談の中に、この「出席扱い」がきっかけとなり復学できた話もありました。
友達の存在
中学2年の時に不登校になりました。
ちょっとした言い争いがきっかけでクラス全員から無視されました。きっかけは小さな言い争いだったと思います。
体育の授業の後に私の運動音痴のことを責められ、なぜかその時、私はクラスのリーダー格の男の子に言い返してしまったのです。
それまで我慢していたこともあり、ひどい暴言を吐いたような気がしています。
それから、その男の子からは、トイレに閉じ込められたり、カバンを隠されたり、様々ないじめを受けました。
はじめは黙って耐えていましたが、そのうちクラスの誰とも会話が出来なくなってしまい、話しかけても無視されるようになりました。そこから中学2年生の終わりまで不登校だったのです。
中学3年生になってから1週間くらいして、近所に住む幼馴染の男の子が私を「学校にきてみたら?」と誘ってくれたのです。
それまで、学校の資料などを僕の家まで届けていてくれた男の子でした。
かなり躊躇しましたが、進路希望の公立の高校へ入学したかったため、3年生は普通に授業を受けたかったと心の中で思っていました。
結局、彼の呼びかけに応じて学校に行ってみると、あの時の空気が嘘のようにみんなが私を出迎えてくれたのです。
それから、私は「志望の高校に受かりたい!」という一心で勉強に明け暮れ、見事公立の商業高校に受かることが出来ました。
幼馴染の彼には感謝しかありません。遠く離れて暮らしていますが今でも親友です。
長女が小学4年生の時、関西から東京に転勤するにあたって、なかなか友達ができず一時期不登校になったことがありました。
特にいじめられていたわけでもないのですが、自分自身の関西弁が恥ずかしいと言う羞恥心が一番大きな理由です。また、周囲のお友達が非常に勉強ができることも本人にとっては気になることだったようでした。
結局は、1ヵ月程度学校に通うことができなかったのですが、その間も担任の先生から毎日連絡をいただき宿題等はきちんとこなしていたので勉強に遅れはなかったと思います。
また、転勤したばかりで家内も仕事をしていなかったのでコミニケーションの面でも特に問題なく生活ができていました。
正直なところ、本人にとって人生で初めての引っ越し、さらに慣れ親しんだ場所から移ったこともありマイナスに考えてしまうのは仕方なかったと思います。
あれから10年近く経ちますが、周りのお友達も良い子が多く、娘を受け入れてくれたことに関しては本当に感謝しなければならないと思っています。
結果的に、娘もこの経験を経て非常にたくましくなったのではないかと思います。
誰もが人生で1度位は通る道かもしれないので、この程度で乗り切れたのは本人にとっても良かったかもしれません。
1ケ月の不登校の経験が彼女を成長させたと思います。
小学6年生の頃に転校して、そのまますぐに中学に上がったのであまり周りに馴染めず、学校に行きづらさを感じてそこから不登校になりました。
担任の先生が、すごく良い人で2年3年と同じだったこともありよくわかってくださり親身になって話を聞いてくれたり対応してくれました。
3年生になり、進路相談のときに全日制と通信、夜間もある高校を提案してもらいました。公立で学費もあまりかからない全日制に合格をしました。
通うようになってからは自分と同じ境遇の子が居たり話しが合ったりと中学生の頃より、楽しく休まずに通えるようになりました。
昔から朝起きるのがすごく苦手で、中学生の頃は朝になって学校に行くのが嫌になり行っても 仲の良い友達も居なく行く気になれずにいました。
でも、高校生になってからは朝起きることは嫌でしたが、仲の良い友達が居てくれてもし嫌に何ったら、自分で休むことも途中で帰ることも出来ると思って、心を楽にするようにして通学するができました。
先生の対応
先生が原因で不登校になることもありますが、学校、先生の対応次第で復学できることもあるんです。
私は小学校3年生くらいの頃から不登校になりました。きっかけは友達との喧嘩でした。
小学生にもなると、女の子達はチームを作り、誰かを仲間はずれにしたり、また次の日には違う子が仲間外れにされたりしました。今思えばよく分からないことをしたりされたりしてきました。
両親は共働きで私は家の鍵を持たされて、小学校が終わると児童館に行き、親の帰りを待っていました。
両親共に仕事の帰りが遅く、毎日夜の18:00〜19:00頃に迎えに来ていました。その時間になると、もう友達のお母さんやお父さんが迎えに来ていて、私はほとんど一人で待っていました。
家に帰ってもご飯はなく、そもそも母は料理が好きじゃなかったのでほとんど外食かインスタントラーメンでした。そして母はギャンブルが好きで私達には「これからまた仕事に行かないといけないから。」と言いほとんど毎日パチンコ屋に行っていました。
そういう日常生活での寂しさや学校での問題など自分の中でいっぱいいっぱいになっていました。それから不登校になり、学校に行けても具合が悪くなり保健室に行って早退を繰り返していました。
ですが、小学校6年生の時にすごく良くしてくれる担任の先生に出会い、私は少しずつ登校出来るようになりました。最終的には応援団の団長になり、今ではとてもいい思い出です。
私は高校生のときに不登校でした。具体的にいうと、高校1年・2年・3年の毎年1か月から2か月くらい高校を休んでいました。
高校の先生はそのことについて、ポジティブで、「必ず道はある」と教えてくれました。もちろん、私の親にも「必ず道はある」というのを説いていて、私の親も不登校に対して前向きな考えでした。
今思うと、不登校になる理由は、勉強をやることに意味を感じることができないという状態に陥っていたからだと思います。当時は、インターネットが普及しはじめた時でしたので、今ほど情報が盛んではありませんでした。
今の高校の先生なら不登校に理解があるのは普通なことかもしれませんが、当時で私に理解を示してもらえたのは救いです。このように、学校の先生が不登校に理解があると本当に助かりました。
悲惨な事件も多数ありますが、それを防ぐためにも、今不登校の子どもたちと関わっている人たちに言いたいのは、先ほどにも見てきたように、「必ず道はある」です。
不登校は本人だけで解決できる問題ではありません。学校の先生、親、友達、全ての人が関わってきます。不登校を駄目だと押し付けないで、なにが問題なのかを一緒に横に座って考えることが大事だと思います。
不登校になったきっかけは、ある科目(英語、数学)の勉強内容についていけず、次第にクラスメイトからバカにされ、からかいや仲間はずれなどが日常的に行われるようになったことです。やがていじめへと発展した事が原因でした。
恥ずかしながら、他の科目で見返せるような得意科目やこれといった特技もありませんでした。それだけにいじめがどんどんエスカレートしていき、学校に行くのが怖くなり自宅に引きこもる日々が続きました。
元々学習意欲は高くなく、小学生の頃から成績は悪い方でしたので、日常的に親からは勉強しろ!と強く叱責され育ってきました。
今回のいじめについて、親からはお前が勉強してこなかったのが悪い、悔しかったら勉強して見返せばいいと自己責任論を言い放たれ、真剣にいじめについて向き合ってはくれませんでした。
後日、担任の先生が個別で面談がしたいと言う事で自宅に足を運んでくれ、心理的なケアやいじめに対する対策について徹底的に話し合いました。
担任の先生が、これほど熱心にいじめについて向き合ってくれなければ、不登校という状態から脱することはできなかったと思います。
学校には複数の教職員がいます。一人でも自分のことを理解してくれ味方になってくれれば、不登校という状態からは脱することができると実感しました。
小学6年生あたりから、ちょっとしたことで周りからいじめられ、周りの目を異常に気にするようになりました。そして、次第に学校に行きたくなくなりました。
中学1年生の頃は1学期に学校に少し行ったほどですぐに嫌になり、そこから中学3年の2学期開始まで、不登校になりました。
その頃は完全に引きこもり、勉強も一切せず、寝るかTVを見るかゲームくらいしかしませんでした。引きこもっている間は、心の中では学校に行かないと将来やばいと考えてはいました。
でも、とにかく行動に移す気が全く起こりませんでした。13~14歳なのに、それまでの人生にものすごく疲れを感じていました。
そんな中、中学3年の1学期の途中、担任の先生からフリースクールのような施設に通ってみないかと誘われました。
フリースクールかどうかその当時はわかりませんでしたが、そこに通って2学期から学校に通えばギリギリ卒業させる、という話の内容だったと思います。
2年ほどの引きこもり生活である程度疲労が癒え、焦りもあって、その申し出を受け、そのフリースクールに2か月ほど通いました。
そこはハッキリ言ってすごくつまらなかったのですが、外へ出てどこかに通うということがいいリハビリになり、不思議と2年ぶりの学校登校に抵抗はありませんでした。
クラスの皆も快く受け入れてくれたおかげでずっと通い続けることができました。猛勉強して、近くの県立高校に合格することができました。
経緯はそんな感じです。とにかく親含め周りに味方が誰もいなくて一人で周りと戦うというのは子どもにとってはものすごく辛いことです。辛いというか、絶対無理です。
私の場合がそうで、物心がついたころには既にそんな状況で、しかも 親からの高学歴プレッシャーなどがあり、中学に上がるころには完全に疲れてしまいました。しかもその疲労感は自分では全く気づいていませんでした。
今考えると子どもにはある程度のサポートと味方が必要だと、心の底から思います。
私の場合は運よくいいタイミングで素晴らしい担任に恵まれ、機会に恵まれましたが、その機会がなければおそらく今でも、そして死ぬまで引きこもりを続けていたと思います。世間には基本的に味方はいない、地獄のような世界だとずっと感じていたので。
逆にいえば味方とサポート、そしてきっかけさえあれば悪いスパイラルを断ち切ることはできて、行動に移せるようになるのではないかと思います。
高校2年の時、学校に行くのが嫌になり不登校になりました。大きな理由は、高校1年の時の友人のほぼ全員が留年したり、学校を辞めたりしてしまって、同級生に親しい友人がいなくなってしまった事です。
また、学校を辞めた友人から遊びの誘いがあった事もあります。高校1年の頃からアルバイトをしていたので、卒業できなくてもこのままアルバイトをしていれば大丈夫と、そんな考え方もあり、テストの時以外は学校に行きませんでした。
教師や母親から何度も学校に行くようにと説得、叱責を受けました。でも、特に心に響かなかった事を覚えています。
期末テストの少し前に、「国語の授業にあと1回来なければ出席日数が足りなくなって留年が決定する」と連絡が入りました。時同じくして、社会科の教師からも「期末テストで70点以上を取らなければ赤点決定」との連絡が入りました。
授業を受けずに受けたテストは、国語以外の教科が赤点で、それら全ての教科が次の期末テストで70点以上出さなければ赤点決定です。
わざわざ連絡をくれたのは社会科の教師だけで、担任でもあった数学の教師ですら何も言ってきませんでした。社会の先生は、いい先生でした。そんな単純な理由から、期末テストまでは学校に行ってみようと登校しました。
そして、授業を受けて挑んだ期末テストの結果は、数学と英語以外70点クリア。そうなると留年したくないという思いが芽生えました。後1回休んだだけで国語の出席日数が足りなくなる事もあって、毎日学校に行くようになりました。
無事に3年に進級で来た頃になると、周りの悪友からの遊びの誘いもなくなり、学校内に新しい友人ができ、たまにしか行かなかった学校をたまにしか休まなくなりました。
こうして就職活動に入りました。しかし、学校に来る求人から何社も面接を受けに行きましたが、結局内定をもらう事が出来ずに卒業する事になりました。
面接で必ず聞かれた事は70日以上もの欠席の理由です。1年に出来た友人が2年でいなくなった事など、社会では理由になる訳がないのです。
私は、中学3年生のときに不登校になりました。友人とのトラブルが原因でしたが、春から夏にかけての約1ヶ月間学校へは行きませんでした。
両親や担任の先生から、通学を進められたものの、そのときには学生時代がすべてのように感じて、その先のことまでは考えられませんでした。
ですが、あるとき、私と母は学校へと呼び出され、高校進学についての意見を求められました。私は、ずっと通いたい高校があったのですが、現状を考えると難しいとも思っていました。
ですが、教師は今からでも遅くはないと言ってくれました。そして、そのときに通信制高校の存在も知りました。家にいながら勉強ができるということで、かなり魅力を感じましが、やはり全日制の高校にしました。
遅れた分の授業を取り戻すために、かなり時間をかけましたが、無事に合格することができました。ですが、人間関係がやはり不安でした。もしかして、再び登校拒否になってしまうのだろうかと思いました。
そんなときに、先生が選択肢は色々とあるのだということを教えてくれました。たとえば、途中で通うことができなくなったら、いつでも通信制に変えてもいいというものでした。
選択肢がたくさんあると考えることで、気持ち的に楽になり、高校に通えるようにもなりました。
高3の2学期くらいから不登校の時期がありました。最大で2週間連続で休んでしまい、それ以外でもしょっちゅう休んでいました。なので、高3の3学期には単位がギリギリになってしまいました。
その頃、高2の時の担任が心配して私の家まで来てくれました。そして、一緒に そのあとファミレスに行ってくれ、話しをしてくれました。
一杯 励ましてくれて、その先生のおかげでなんとか単位が足りなくなることもなく卒業できました。なので、卒業できたのは、その先生の力のおかげです。先生の存在が自分にはとても大きかったので、すごく感謝しています。
振り返って、どうして 学校に行かなくなってしまったかと言うと、いろいろあって友人がゼロになってしまったこと。
学校で孤立してしまったからなんです。なので卒業までの日数を指折り数える日々を送ってました。今考えると人生の中では一番つらかった時期です。
先の見通しも真っ暗でした。どうしようと考えても抜け出す方法もなかったですし。これが高2からその状況だったら卒業できなかったかと思います。
高3からそのような状況になったので、まだ なんとか頑張れました。進路は専門学校にそのあと進学しました。
専門学校では、友人にも恵まれて とても楽しい学校生活を過ごすことができました。
毎日学校から帰るとたくさんのお友達と遊んでいた小学4年生の娘が3学期にいじめにあいました。本人は何も悪いことをしていないのにみんなが遊んでくれなくなったと言いました。
唯一遊んでくれていたAちゃん。学校が終わると自宅で二人で遊ぶようになりました。
ある日、同じクラスの男の子に、どうしてみんなで遊ばなくなったの?と聞くと、Aちゃんがうちの娘にいじめられている、家に遊びに行かないと暴力されるとあることないことを同じクラスの女の子にいいふらしていることが発覚しました。
そのことがわかるまで娘は学校を休み、家で暴れ、買い物でストレス発散するようになりました。理由がわかるまでは先生に相談せず我慢していましたが、理由がわかり担任に電話で事情を話しました。
みんなが遊んでくれなくなり、家で唯一遊んでくれていたAちゃんが原因でしたと話すと子供達の間で話し合いをしてくれたそうです。家で遊んでいるのを間近で見ていて、とても仲良く遊んでいたので我が子は暴力なんてしませんと自信をもって伝えました。
Aちゃんは自分が嘘をついていたと謝罪しお母さんからも先生からも謝罪があり解決しました。友達が多く、親子仲良しなうちの子を妬みとった行動のようですが、一番身近に黒幕がいたというドラマなような実体験です。
最初はAちゃんを許せないと言っていた娘ですが5年生になり今では仲良く遊んでいます。
不登校になってしまった子の心の扉を開けるのは本当に大変だと思います。
私の場合は毎日ではないですが、週に数回家まで来て話を聞いてくれた学年主任の先生や柔道教室の先生、不登校にはなってないが平日学校を休んで遊びに誘ってくれた友達がいたりして、人との繋がりがあったから割とすんなりと学校に戻れたところがあると思います。
なので、好きな事や同じ境遇の人など、人との繋がりを作る機会を与える事が大切だと思います。
投薬、カウンセリング
不登校に中学時代 私自身がなった体験談です。
小学校の時は非常に元気でクラスにも部活にも友達がたくさんいて、楽しく過ごせていました。
ただ、中学に行くと全く知らない人達だらけで、さらには得意なスポーツもマンモス校だったこともあり、周りに私より得意な人がたくさん出てしまい、目立たない日々に。
勉強もうまくいかず、小学校の時の友達も離れるような日々が続いてしまい、次第に学校を休むように。中1の夏休み以降、不登校となりました。
私は保健室登校すらしたことはないですし、あまりにも人に会うのが億劫になってしまっていたので、母と一緒に昔母が通ったことのあるメンタルクリニックへ通院することとなりました。
症状を全て伝えると適応障害という診断名。これを学校に伝えると自動的に欠席が悪のものではないものと認められるようになりました。
その後、薬を飲むようになると不安も減り、なんとなく自信もついたので小学校の友達と一緒に勇気を出して部活動だけでもいこうと決心し、行くようになりました。
そこには笑顔で迎えてくれる部員や先生の姿があり、本当に救われました。やはり一歩を踏み出すか踏み出さないか、その点が非常に大切だとこの不登校を経験して感じました。
中学1年の頃と中学3年の頃に1~2か月程学校に通わない時がありました。
中学1年の頃は特定の生徒に暴力を受けること等があり、通学する事が嫌で親に相談し学校には通わず、基本的には日中は家から出ずに過ごしていました。
部活動に入っており、夜間はクラブチームにも所属していたので夜間のクラブチームの練習には参加していました。
後に加害者側の謝罪と学校側が対策を約束した事で徐々に通う様になり、暫くして通常の学校生活に戻りました。
中学3年時の不登校は、部活内におけるトラブルに加えて、怪我をしていた事で精神的に不安定になり、登校時間になると体の不調が出て動けなくなるので、当時のかかりつけ医に相談し、無理な時は行かない方が良いという事で家で安静にしていました。
この時は軽めの睡眠導入剤や不安な気持ちを落ち着かせる様な薬を処方してもらい、登校できる時は登校するという形をとっていましたが、徐々に容体が悪くなっていった事もあり、暫く学校に通わないという形を取りました。
この時は受験の事等もあったので更に不安な状態となり、カウンセリング等も受けに遠くの病院へと通っていました。
カウンセリングを受けた事で悩みを言う事が出来、気分的にかなり楽になった事や怪我の方も快方に向かった事で精神的な不安が無くなり、徐々に通う事が出来る様になりました。
投薬の体験談はこちらも参考になります。
部分登校
私は、中学1年生のときにイジメにあい、学校へ行けなくなってしまいました。
私をイジメていた生徒は違うクラスに移り、一応、問題は解決したのですが、心の中から恐怖や不安が消えることはありませんでした。
行こうとする気持ちはあるのですが、学校が見えてくると怖くなってしまい、そのまま引き返すようになったのです。
最初は両親も登校させようとしたのですが、私の状態が普通ではないということで、小さい時から通っている小児科の医師に相談したそうです。その結果、無理に通わせることは私のためにならないということで、学校を休むことになりました。
担任の先生も事情をわかってくれて、休むことを許可してくれました。授業に遅れが出てはいけないということで、毎日、どの教科をどこまで勉強したのかを教えてもらいました。
1か月を過ぎた頃から、部分登校という形をとるようになりました。参加できる授業までは参加し、気分が悪くなったり、不安になったら帰宅するというものでした。
そうやって少しずつ慣れていったせいか、3ヶ月後には普通に登校し、友達も増えました。改めて思うことは、両親や先生があせらず見守ってくれていたことです。
早く学校に行くように言わなかったため、自然と学校に対する恐怖や不安が薄れていったのだと、当時を振り返ってみると感じます。
家庭教師、勉強面
高校に入学して2ヶ月後に不登校になり、高校2年生になるまで学校へ行けませんでした。もともと人付き合いが苦手でクラスで友達ができず一人になってしまい、それがつらくて徐々に学校へ行けなくなったんですよね。
私が「学校行ってないから、大学に行けなくなるよね」と不安な気持ちを話すと、母は家庭教師をつけてくれたんです。
高校1年の時は家庭教師に勉強を教わり、自分でも必死に家で勉強をして過ごし、2年生になったら普通に通えるようになりました。そして大学へ進学し、建設会社に就職。
私が自立できたのは、母のおかげだと思っています。母はいつも私にじっくり考えさせ、決断するまでずっと待ってくれました。自分が決断したことは自信をもって行動でき自立につながります。
親に「自立できていないことが心配だ」と責められたら、ずっと自立できなかったかもしれません。母に本当に感謝しています。
なぜ学校に行かないのか私が理由を言わなくても、母はしつこく追及せず、「行きたくなったら行けばいい」と言ったんです。
不登校になったあせりや不安、自分を責める気持ちがありましたが、母がいつも明るく話かけてくれて冗談を言って笑わせてくれるので、家では楽しく過ごすことができました。
徐々にマイナスな気持ちが消えていき、自然と前に進むことができました。
学生だった頃、自分の世界は学校が全てで、その学校へ行けなくなった自分はダメな人間だと自分を責める日々でしたが、大人になった今、狭い世界で生きていたなぁと思います。
学校へ行かなくてもなんとか生きていけるんだと、大人になってからわかりました。もし不登校に悩んでいる子がいるなら、学校が全てではないと言いたいです。
自分を責めず、少しずつやっていけば良いですし、いつか必ず自立できます。人生はどの時点でもやり直せるので、焦らず、心が元気になるまで立ち止ったままで良いと伝えたいです。
転校、学校環境の変化
現在、20代後半の女性です。私が不登校になったのは中学1年生の時です。
不登校になったきっかけは、小学校卒業後に急遽、親の仕事の都合で父親の実家のある県に引っ越したことです。
もともと父親は転勤で来ていた都会の街を早く出て、実家のある県に引っ越したいという希望を会社に出していたそうで、突如その父の希望が叶ったので父は嬉しそうでしたが、私としては生まれてから10年以上住んだ街を離れることは辛くて、だけども新しい土地でも新しい友達ができればいいと思いました。
しかし、その希望は中学校に入った後に叶わないことを知りました。1学年15人程度の小さい学校なので、地元の子同士で既にグループができあがっていて、新たにやってきた人は「よそもの」として徹底的に排除されました。
私の他にも「よそもの」は2人いたのですが、その子達も私と同じように、地元の子のグループには入れないままゴールデンウィークが終わってしまい、夏頃からは物を隠されたり暴力を振るわれるなどの目に見える形でのいじめが始まりました。
学校を休みたいと言っても、両親は世間体などもあるので許してくれなかったので、無理をしてでも学校に通いましたが、2人の「よそもの」の子達は既に不登校になったり、私立に転校したりで「よそもの」が私だけになってしまった秋頃から、原因不明の頭痛と高熱が続くようになったので、その頃からようやく私も学校を休むようになりました。
病院に行っても頭痛と高熱の原因がわからなかったので、先生に課題などを届けてもらって家で勉強をしていました。体調不良で学校を休めるようになった頃からは、頭痛と高熱が酷くなっていて、遊びに行ける体調ではなかったので、外出はほとんどしていませんでした。
中学2年生になり、学校が近隣の学校と合併して1学年200人くらいになったので「よそもの」への風当たりも少なくなったおかげなのか、頭痛と高熱は治ったので、なんとか通学できるようになりました。
高校は隣町の公立高校の普通科に進学して、その後は都内の服飾関係の専門学校に進学、現在は服飾関係の仕事についています。
最後に、不登校は家族の方の協力が絶対条件です。私はストレスやプレッシャーから頭痛と高熱が出るまで学校を休めなかったのですが、本当ならば早い段階で学校を休んで塾などでの学習に切り替えたりという方法もあったはずです。
兄弟の入学、母親のPTA活動
私の現在小学校6年生の息子は、小学校2、3年生の時の2年間不登校でした。
元々軽度の知的障害があり、小学校入学の時から特別支援学級に在籍していて、1年生の時から母子分離不安があり、毎日登校しぶりが続いていました。毎朝学校まで一緒に送迎することでなんとか登校してきました。
しかし、2年生の時に息子が在籍する交流学級の方で学級崩壊が起きてしまい、優しい物腰柔らかかった男性の担任が退職し、一度退職されて再任用されたわりと怖めの男性教員に変わってしまったことが、不登校のきっかけでした。
私が学生時代のときは当たり前のようにいた感じの先生で、厳しく叱るが面倒見がよい先生でしたが、聴覚過敏の息子からしたらその先生の声の苦痛で仕方なかったのだと思います。
学校に行こうとすると吐き気がする日が続き、最初は一般の小児科へ通っていたものの発達の事で通っている小児神経科へ受診しカウンセリングを受けていました。
元々特別支援学級だったこともあり、国、算の勉強は個別の進度で学習していたので不登校の間は、私が仕事を辞めてずっと勉強を教えていたのです。もちろん、特別支援学級の担任もまめに連絡をいれて下さったり、よく自宅まで来てくださいました。
そんな長男の不登校がなくなったきっかけは、次男の入学です。次男は、長男より障害の程度が重く特別支援学級在籍だったので、私も毎日送迎しました。
その時からPTAの役員をするようになったので、週の半分くらいは学校で作業をしたりするようになりました。いつでもママが学校にいてる事が、長男の安心材料になったようで再び登校するきっかけになりました。
不登校支援サービス、コーチング
小中学校と不登校には無縁だと思っていた高校2年の3学期に不登校になりました。私は母親として無力感しかなく、夫も学校にイケイケというばかりでした。
不登校専門の機関に夫が相談したいというのでインターネットで見つけたところに行きました。
子供は行かないのではないかと思いましたが、そこには寝泊まりしている生徒もいて、先生はご病気もあるのに一人一人に真摯に接していました。
結局、その先生がおっしゃるように子供の場合は病気との関連が原因でしたが、私は根本はこの相談できる居場所で夫も含めた全員で子供のことに向き合えたのが良いきっかけとなりました。
今は心療内科に行っていますが、その医師とはあまりそりが合いません。人間対人間のことですので、子供がやりたいと思うことをやらせてあげることが大事です。
周りは見守ることです。難しいですが いずれは親は先に死んでいくのでコーチングとかそういうことも親が考えていく方がいいと思います。子供の人生は子供のだから。
高校受験の勉強が本格化する中学校3年生から不登校になりました。3年生のゴールデンウィーク明けから不登校になり、最終的に卒業まで通うことはできませんでした。
中学校への復学はしませんでしたが、サポートのおかげで高校への進学は無事に成し遂げることができました。ですので支援を受けた期間は11ヶ月となります。
高校からの復学に関してどうすれば良いのか悩んでいたところ、支援員の方から通信制高校を薦められました。
毎日通学する必要がなく、ネット環境さえ整っていれば自宅で授業を受けたり自学自習をしたりできるなどのメリットがあると教えてもらえました。
支援機関ではまず、引きこもりがちになっていた生活リズムを少しずつ立て直すことから始めてくれました。幸い、うちの息子の場合、完全な引きこもりではなく外出しやすかったこともあり、すぐに同じ悩みを持つ仲間に出会えました。
悩んでいるのは自分だけじゃないと感じてもらえたようです。支援機関では、主要5教科をはじめ将来仕事で役立つであろう技術や知識も学ぶことができ、大変感謝しております。
どうしていいのかわからず、不登校支援サービスを利用しました。
ただ、高額なこともあり 途中でやめてしまいました。
それでも、言葉のかけ方や態度を考え直すきっかけとなりました。
親が変わることで子どもに変化があったように思います。
しばらくして少しずつですが登校する日が増えました。
家族で抱え込むよりも相談することも1つの方法だと思いました。
賛否両論ありますが、我が家は支援サービスを利用して良かったと思います。
見守って、家族だけではどうにもならなくて、追いつめられていました。
話を聞いてくれたことで気持ちが楽になりました。
まだ、五月雨登校ですが、少しずつ通うようになっています。
学校に戻れたこと、戻れなかったこと どちらも経験があります。
学校に元気に通えるなら、それが一番いいと思っています。
ただ、子どもの心身の状態によっては休む選択も必要です。
不登校支援について参考になるブログ記事です
他にも不登校を経験したご本人、ご家族、また、先生など関係者の方々の体験談を多く紹介しています(当サイトで募集しました)